AIの写真

残暑お見舞い申し上げます。
写真の取り扱いは時代の流れと共に大きく進化をしてきました。
フィルムに変わるデジタル画像が世に出現して以来、今年でほぼ四半世紀が経過しましたが、ここに来て写真は2度目のとんでもない変革期に入ったと感じています。
昨今、生活の中で徐々に浸透する「AI」という知的な情報処理技術は、1枚1枚の写真を素材や情報として扱い、結果、さまざまなシチュエーションの写真を臨機応変に作り上げてくれるのです。
1シャッターですべてを表現してきた今までの写真は、ほぼ素材として扱われ、それらの集合体は膨大なインターネット上を拠点として蓄積された情報源になるようです。
このような膨大な情報源をふところに持つ「AI」の知識は実に賢く、日々進化を続けるのだそうです。
「おいおい、我々が培ってきた1枚ものの写真っていったい何なんだ!」
って、問われる時代なのかもしれません。
AIが集めた膨大な情報から抽出される巧みな合成技術や、自由自在に操れる形状の変形技術・・・・・
美女たちが月面でファッションショーをする写真とか
いろいろな花の名前をあげるだけで出来上がるフラワーリースの写真とか
iPhoneで撮影したTシャツ姿の写真だけでネクタイ背広付きの証明写真ができちゃったりとか
そんなこんなは、もはやお手のものみたいです。
コラージュやデフォルメーションは、イラストや絵画など「ハンドメイド」で製作するビジュアルでは日常的な手法ですが、そんなことが写真でも簡単に出来るようになりました。
これは、映像の受け取り手となる閲覧者に向けた画像の加工が「ハンドメイド」感覚でホイホイ作れてしまうというわけです。
「それって、ほんとに写真なの?」
次にはそろそろ、そんな問い合わせが聞こえてきそうです。
今更ながらですが、いい加減「写真」という言葉の定義が必要になるのでしょうか。
「そもそも、物体の真を写すものが写真なのである」
のような、うんちくめいた説明です。
みなさんはどのように思われますか?
そしてまた、データの書き換えや撮り直しが簡単に出来るデジカメがあるにもかかわらず、わざわざコストのかかる1枚ものの「インスタント写真」を愛好するような今の若者たちの気持ちは、いったいどこから来るのでしょうか。
そんな「1枚ものじゃなきゃいけない気持ち」は、それこそ写真の本髄なのではないかと私は思うのです。
自尊心をくすぐるような写真
奇抜なアイディアや意外性に満ちた写真
思い通りに操るプロモーション利用の写真
写真と言われればたしかに写真、だけど何気に歯切れが悪く現実離れしているように感じる写真は、そもそもが閲覧者自身の受け取り方次第なのでしょう。
つまるところAIの写真はそれを評価する人の主観で、いかようにも好き好みの判断をされるのではないでしょうか。
そして今後は閲覧者の写真を見る目が、どちらかといえば絵画的な感覚になっていくのだと思います。
本来、表現したいイメージを一瞬でキャッチするために、息を殺してその瞬間にかけたカメラマンの集中力は、情報処理というテクノロジーで怠慢化され、現場の緊張感よりも後日のつじつま合わせに翻弄する気配すら感じ得ます。
後処理を前提にしたり、いいとこ取りした画像を切り貼りしたり、いらない被写体はさっさと消していったり・・・
などなど、これは単に疑似的な映像の手法を用いた「絵」なのではないでしょうか。
AIに対して決して悲観的なイメージはないのですが、どうにも気になるのがこれからの将来、閲覧者の写真を見る感覚に、少なからずともこのような絵画的な思想が入り込むということです。
ここに掲載した画像はリサイズのみで無修正の一発で撮影した写真です。
版権保持のため、仕方なくコピーライトのウォーターマークは合成してあります。
この写真は背景にする素材選びから始まり、コスモスが地に影を落とす時間帯を見計らい、背景への光線状態を調整しながら風に揺られるコスモスの一瞬をとらえたもので、異常気象の中で暑さに揺らぐコスモスの生命力を表現した内容です。
多分ですが、意図的な画像の合成やAIに委ねた画像生成にした場合、ここまでの表現にはならなかったのではないかと思います。
なぜならこの写真には、映り込んでいる被写体への偶然性があちこちに存在しているからです。
・背景の色の反射率(グラデーションや粒状感)
・コスモスの花弁の開き具合
・風に揺らぐことによる植物全体の配置バランス(構図)
半ば哲学的な議論を巻き起こしそうなAIによる生成された写真は、今後の写真産業においても一石を投じる主役になることは間違いなさそうです。